横断歩道橋の誕生と標準設計までの経緯
昭和33(1958)年3月31日、「道路整備緊急措置法」(法律34号)の制定に伴い、道路整備五箇年計画が定められ道路整備が促進されたが、急増する自動車に追い付けずに歩行者の死亡事故が激増し、昭和30年代後半にはいわゆる“交通戦争”と呼ばれる社会問題が顕在化した。そのため、歩行者が安全に道を横断するための構造物として横断歩道橋が設置されるようになった。
日本で初めての歩道橋は1959(昭和34)年に架けられた愛知県清州町(現在の清州市)の西枇杷島横断歩道橋とされる。
当時は歩道橋に関する基準が無かったため、道路法の一部の改正により1957(昭和32)年に定められた道路占用許可基準に従って、1958 (昭和33)年に建設省中部地方建設局は西枇杷島歩道橋の設置を許可することとなった。
その後、全国各地から歩道橋の設置を求める声の高まりを受けて、設計指針や設置基準の制定作業が行われた。
1965(昭和40)年に建設省により設計基準となる「横断歩道橋設計指針(案)」が作成され、翌1966(昭和41)年には「土木構造物設計・第V巻」が発行されると次第に全国的に標準設計の横断歩道橋が架けられるようになった。それまで“横断人道橋”としていた名称が 「横断歩道橋」と定められたのもこの時である。
つまり、1959年から標準設計が定まる1966年までの間に設置された歩道橋のデザインや構造は設置者に委ねられていたため、地域などで独自性が見られたと考えられる。
伝播するデザイン -パイプアーチ橋の事例-
神戸市にある「山手一号歩道橋」、通称“夕やけ橋”は1963(昭和38)年に架けられた歩道橋で、そのデザインは「神戸市の市章をモチーフとしている」と紹介されている。
しかし、初期の歩道橋には同じくパイプアーチ橋の形式を採用した歩道橋がいくつか存在し、岐阜市の「本郷町歩道橋」や滋賀の大津市にある「北門跨道橋」などの例がある。
これらのパイプアーチ橋は地域や設置者が異なっていてもデザインに共通性がある。
実は1961(昭和36)年~1962(昭和37)年に開かれた大阪の産業博覧会場で住友金属の“レインボーブリッジ”という、恐らくパイプアーチ橋の見本が展示されている。岐阜市の本郷町歩道橋などについては岐阜市職員がこれを見学し参考にしたとされていることから、他のパイプアーチの歩道橋についても出自が同じである可能性が高い。
神戸の山手一号歩道橋についても同じことが言えると思われるが、片側2車線の道路に架けられたこの歩道橋は2連のパイプアーチ橋としている点に特徴がある。そこから推測するに、市章のデザインありきでパイプアーチ橋が選択されたのではなく、実際にはパイプアーチ橋2連の歩道橋を架ける構想が持ち上がり、その過程で歩道橋のデザインを市章と関連づけたと思われるのである。
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