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執筆者の写真sato

03-02 “今津南線”の建設について(1)

更新日:2020年10月11日


 西宮北口~今津間の通称“今津南線”は開通当初からほとんどの区間が高架線として開業した。この路線の建設工事に関する資料が今のところ見当たらないため、現地調査や地図を用いて考察することとした。



1.高架線建設の背景


 まずは開業前の1923(大正12)年の地図から。

 西宮北口と今津の間はほとんどが田畑であり、中国街道が通る今津周辺は集落であったものの、西宮の市街地からやや離れた西宮北口周辺はまだ駅くらいしか存在していなかったことが窺える。

 ところが、“今津南線”が開業する1926(大正15)年頃からこの周辺は大きく変化することになる。



(1) 阪神国道(現在の国道2号線)の開通

 道幅が2間(≒3.6m)ほどで広い所でも3間(≒5.4m)程度しかなく、また急なカーブが多かったそれまでの旧国道に代わって阪神国道が竣工したのは1927(昭和2)年。今津線の全線開業が前年の12月なので、ほぼ同時期に竣工したことになる。  1920(大正9)年11月24日に内務省より改築が公示された阪神国道は、かねてからの計画に沿って用地を取得していったため、大正12年の地図にも建設予定地が記されている。

 ところで、改築の告示に伴って、路面上に電車軌道または自動車軌道敷設の特許が複数出願された。

 最終的に特許を獲得した阪神国道電軌株式会社は、阪神電気鉄道と阪神自動車軌道が共同出資した会社で、1925(大正14)年8月に設立された。そのため、1923(大正12年)2月に特許は阪神電気鉄道に一旦下付され、会社設立後に阪神国道電軌へ軌道譲渡という形がとられた。  阪神国道の竣工とともに開通した阪神国道軌道は、しかしながら経営危機に陥ってしまい、設立から1年も経たずして会社は 1928(昭和3)年4月1日に阪神電気鉄道に統合され、路線は阪神電気鉄道の国道線として継続することとなった。  阪神国道電軌株式会社が経営危機に陥った要因の一つに、軌道設置に伴う道路拡幅の負担の一部を担ったことが挙げられる。

 12間(≒21.7m)の幅員で建設予定だった道路を、軌道設置を理由に15間(≒27.2m)に幅員を変更し、その分の工事費用の一部が阪神国道電軌株式会社に求められた。最終的な負担額は当時の金額で218万円、これは総工費1248万円のおよそ6分の1にあたる。  しかし、阪神国道とは言え、開通したてではさすがに沿線は開発途上であったため、負担額を回収できるほどの収益がなく経営危機に陥ってしまったというのが実状であった。

(2) 鉄道省線の複々線化と引き込み線の建設

 この付近の鉄道省線は1874(明治7)年5月11日に開業した大阪駅 - 神戸駅間の旅客線にあたり、大阪駅・西ノ宮駅(現在の西宮駅)・三ノ宮駅・神戸駅が開業した。

 1896(明治29)年3月11日には大阪駅 - 西ノ宮駅間が複線化、さらに1926(大正15)年11月15日には歌島信号場 - 東灘駅間が複々線化された。  すなわち、“今津南線”の建設時点で鉄道省線はすでに複々線の工事化が行っていたと考えられ、必然的に今津線は長いスパンの鉄道橋を架ける必要に迫られたと思われる。

 また、複々線では線路は4線となるが、この鉄道省線には複々線の他に工場と西ノ宮駅とを結ぶ引き込み線もあったと考えられ、実際に“今津南線”が跨ぐべき線路の本数はもっと多かったと思われる。  当時、引き込み線があった、もしくはあったと思われる工場が鉄道省線の沿線に2つある。

①毛斯綸紡織株式会社  毛斯綸(モスリン)を製造する毛斯綸紡織株式会社は1896(明治29)に山岡順太郎・滝内竹男らによって大阪で創業した。その後、毛斯綸紡織の工場が1919(大正8)年に武庫郡にも建設された。大正12年の地図に載っている工場がそれにあたる。

 毛斯綸紡織は関西の有力なモスリン会社として発展したが、需要の低下と恐慌の影響を受け、1927(昭和2)年に東京毛織株式会社と合併して合同毛織株式会社となった。

 しかしその合同毛織も1929(昭和4)年には倒産してしまう。  今でこそ工場の立地場所は国道2号線に隣接しているが、建設年代を考慮すると工場立地の条件は反対側に隣接する鉄道省線を使用しての鉄道輸送であったと考えられ、西ノ宮駅から工場への引き込み線が工場建設と同時期に敷設されたと思われる。

②日本麦酒鉱泉株式会社

 1927(昭和2)年10月に今津線の国道駅に隣接する場所に日本麦酒鉱泉株式会社の「ユニオンビール」工場が操業を開始する。

 ここは後のアサヒビール西宮工場となったが、2012(平成24)年8月にビール製造を終了し閉鎖、建屋は取り壊された。  この工場の立地条件も鉄道輸送であり工場への引き込み線が存在していたが、その以前から毛斯綸紡織の引き込み線があったとすれば、その途中でビール工場への引き込み線を分岐させるだけで済んでいたと考えられる。


 

  “今津南線”はわずか1.6kmという短い距離の中で、同時期に完成する国道と複々線の線路とをそれぞれ立体交差で交わす必要があったため、そのほとんどを高架線とせざるをえなかったと考えられる。

 もともと毛斯綸紡織の工場くらいしかなかった場所が、1926(大正15)年~1927(昭和2)年のたった2年間で、鉄道線の複々線化、阪神国道および軌道線の開通、日本麦酒鉱泉工場の建設と著しく発展しており、今津線が高架線で建設された背景にはそうした周辺地域の劇的な変化を垣間見ることができる。

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