2.土木構造物の特徴
ほとんどの区間が高架線として建設された“今津南線”は関西の鉄道高架線として最初期にあたり、その土木構造物は他の鉄道高架線と比較しても非常に特徴的であり特異な存在といえる。
①コンクリートラーメン高架橋
エキスパンジョンスパンから、単桁式ビームスラブ高架橋が採用されていることがわかる。(色分けした箇所がエキスパンジョンスパン)
単桁式ビームスラブ高架橋自体はそれほど珍しい形式ではないが、橋脚が特徴的で、まず支柱の外側に「転び」を付けて末広がりとなっていることがわかる。
また、他の特徴として、
・上下線軌道中心のほぼ直下に橋脚と縦梁が配置されている ・横梁が高架橋の外側に大きく張り出している などが挙げられる。
これらの特徴は、1926(大正15)年4月30日に竣工した阪神急行大阪市内高架線(梅田高架橋)では見られない一方で、同年1月25日に竣工した東京横浜電鉄神奈川付近高架橋に似ているという指摘から、地域的、あるいは会社的な共通の設計だったのではなく、設計した阿部美樹志が高架橋の標準設計を確立する過渡期の構造物であったと考えられる。
なお、設計荷重は大阪市内線と共通であるとすれば、図の設計荷重となり、クーパー荷重E33相当であると考えられる。
②跨線橋
100フィート(およそ30.5m)プラットトラス桁で、阪神急行大阪市内高架線の新淀川橋梁や長柄運河橋梁と共通性があると見られる。当時の阪急では径間100フィート以上の橋梁についてはトラス桁を用いることとしたと考えられる。 ところで、よく見ると端斜材の角度が左右で異なっていることがわかる。右側の端斜材がおよそ40度ほどであるのに対し、左側の端斜材はおよそ30度ほどである。これは阪急のトラス桁の一部で見られる特徴であるが、詳細はよくわからない。
あくまで推測であるが、100フィートプラットトラス桁の場合、通常は径間長が100フィートなので桁長は当然それ以上になる。同型の100フィートプラットトラス桁では桁長が102フィートほどになる。
しかし、左右の端斜材の角度が異なっている100フィートプラットトラス桁の場合、径間長が100フィートなのではなく、桁長が100フィート相当になると思われる。
この傾向はトラス桁が用いられている阪急の跨線橋・架道橋に見られる。
③鋼製高架橋
鉄道高架橋として見ても鋼製高架橋は珍しく、阪急の土木構造物で現存する鋼製高架橋はここにしかない。しかも、JRの線路を挟んで反対側はコンクリートラーメン高架橋であり、その対比もなかなか面白い。
跨線橋から国道2号線の間が鋼製高架橋となった理由は不明だが、今津線が開業する前の地図を見てみると、鉄道省線(JR線)の線路の北側が畑であったのに対し、線路の南側は田んぼであったことが窺える。
すなわち、線路の南側は北側と比べて地盤が弱かったため、コンクリートより軽量な鋼製桁で高架橋が建設されたと考えられるのである。
ところで、この鋼製高架橋の銘板を見ると1909(明治42)年に汽車製造合資会社によって製造されていることがわかるが、新規開業路線の橋桁に開業年のおよそ15年前の橋桁が使われていることにいささか違和感を覚える。
この橋桁の出自を考える時、可能性として架け替えられた新淀川橋梁の転用が考えられる。
1910(明治43)年に淀川治水工事の一環で毛馬から大阪湾までの放水路が開削され、現在は“淀川”と呼ばれているこの放水路のことを「新淀川」と呼称した。阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道はこの新淀川を渡る橋梁を、鋼製高架橋と同じ1909(明治42)年に径間15.2m(≒50ft)の42連プレートガーダー桁として製造し、そしてこの新淀川橋梁の竣工をもって開業した。 新淀川橋梁はその後、1926(大正15)年竣工の阪神急行大阪市内高架線の工事の時に現在の新淀川橋梁に架け替えられた。
1922(大正11)年11月1日
【神戸線】新淀川橋梁・長柄運河橋梁 架橋工事着手
1923(大正12)年2月28日
【神戸線】新淀川橋梁・長柄運河橋梁 架橋工事竣工
1925(大正14)年11月1日
【宝塚線】新淀川橋梁改修工事 着手
1926(大正15年)5月30日
【宝塚線】新淀川橋梁改修工事 竣工
その間の1924(大正13)年に長柄運河~北野間の仮線工事が竣工しており、宝塚線の電車も新たに架橋された神戸線側の橋梁を使って新淀川を渡っていたとすれば、撤去された橋桁を今津線の建設工事期間内に高架橋へ転用することも可能であったと考えられる。
当時の写真が不鮮明なので詳細はわからないが、架け替え前の新淀川橋梁もゲルバー桁を用いたプレートガーダーであれば今津線の鋼製高架橋の形と一致する。
もちろん今津線の径間は42連もなく、新淀川橋梁であった場合はそのうちの一部が転用されたと見るべきであろう。
④阪神国道架道橋
阪神国道架道橋は下路式鋼製プレートガーダーの3径間連続桁橋で、1926(大正15)年に汽車製造株式会社で製作された。国道2号線を跨いでいるこの架道橋もまた特異なものであると言える。
まず、2径間以上の架道橋で鋼製プレートガーダー桁を用いている阪急の架道橋は、この阪神国道架道橋と三宮の加納町第二架道橋の2例しか現存していない。
そのため、この2箇所で鋼製橋脚が使われているが、加納町第二架道橋は阪神淡路大震災の補強工事でコンクリートで固められたため、純粋に鋼製の橋脚を見ることができる架道橋は、阪急ではこの阪神国道架道橋のみである。
もう一点、特徴的なのが可動支承にローラー支承が使われている点である。
ローラー支承が用いられた径間80フィートプレートガーダー桁について、『鉄道技術発達史』にはこんな記述がある。
なお径間80呎の鈑桁には下突縁にも横構を設け特に支点にピンを挿入し、かつ、可動端にはローラーを使用した。けだし鈑桁支承にピンおよびローラーを用いたのは本邦鉄道橋としては1917年(大正6年)達第16号 径間80呎用下路鈑桁および1904年(明治37年)中央線万世橋-飯田町間に架設したドイツハーコート会社製の道床式飯桁と共に特異の存在である。これは当時の示方書に径間80呎以上の橋桁の可動端にはローラー又はロッカーを用いる条項があったためである。その后鈑桁では支点における多小の摩擦力は懸念する必要のないことを悟り、示方書も改正1919年(大正8年)の達第540号の設計よりこのローラーを廃止した。
文中にあるように、示方書に径間80フィートの下路式プレートガーダー桁にローラー支承を採用する条項があったのは短期間であり、それに該当する橋梁は少なかったと考えられる。
さて、阪神国道架道橋の径間が80フィートであるという記述が見受けられないが、『阪神国道なかりせば』に阪神国道の幅員について記載がある。
車道幅員は十九米乃至二十米、中央に五・四五米の複線軌道敷(阪神国道電車)を有し、歩道は各両側各々三・六四米を有する。
車道の幅員が19~20mで左右両側の歩道がそれぞれ3.64mなので、阪神国道の幅員は26.28~27.28mとなる。80フィートがおよそ24mと換算すると、阪神国道架道橋の径間と道路の幅員はほぼ一致し、上記のプレートガーダー桁と同形であると考えられる。
ところで、阪神急行大阪市内高架線(梅田高架橋)でもかつて径間80フィートのプレートガーダー桁の架道橋が存在しており、梅田~中津間の北野跨線橋では神戸線・宝塚線ともに径間80フィートでハーフスルー型複線下路鋼鈑桁が架けられていた。
何れも床面は横梁及び徑材上に凹状鐵板を取付け其の上面は防水並に防蝕のためアスファルト及びモルタルを塗布し、上部には道床砂利を補充せり。
北野跨線橋のこの特徴は阪神国道架道橋にも見受けられ、さらにローラー支承が使われていた点、砂利床複線鈑桁であった点も阪神国道架道橋と共通であり、仮に北野跨線橋と阪神国道架道橋が同形であったとすれば、阪神国道架道橋の桁長は87ft71inであると推察される。
ただし、唯一異なるのは1径間であった点である。これについては当時の北野跨線橋の写真等が見当たらないため詳細は不明だが、もしかしたら阪神国道架道橋の径間を1径間とカウントするのが正しい可能性も考えられる。
【参考文献・資料】
1/25000『西宮首部』,1923年
1/25000『西宮首部』,1927年
『阪急急行電気鉄道高架線建設紀要』上田寧,土木学会誌 第13巻第3号,1926年6月発行,土木学会
『阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋』小野田滋,土木史研究 第21号,2001年5月発行,土木学会
『阪神国道なかりせば』, 1940年,内務省大阪土木出張所
『鉄道技術発達史』第2篇 第3,1959年,日本国有鉄道
『鉄道構造物探見』小野田滋著,2002年12月発行,JTBキャンブックス
『日本全国諸会社役員録. 第34回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
「軌道特許状下付」『官報』1923年2月23日(国立国会図書館デジタル化資料)
『鉄道省鉄道統計資料. 大正14年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
3月19日許可「軌道譲渡」『官報』1928年3月22日(国立国会図書館デジタル化資料)
『鉄道統計資料. 昭和3年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
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