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執筆者の写真sato

04-01 戦前日本における鋼製ラーメン構造の橋梁について(1)

更新日:2020年10月26日

 ラーメン構造は鋼材やコンクリートの普及に伴って近代に発達した構造です。その中から今回は、分布や年代が限定的だったと考えられる戦前日本の鋼製ラーメン構造の橋梁について見ていきます。

 ここでは道路橋・鉄道橋とも1926(大正15)年に登場したと考えられる鋼製ラーメン橋の歴史に触れます。

1926(大正15)年

【道路橋】菖蒲橋(東京)

『橋梁設計図集 第一輯』より


【道路橋】高台橋(大阪)

『大阪都市計画事業 橋梁総覧』より


 どちらも台形鋼ラーメンを主桁とした上路橋で、前者は1923(大正12)年に発生した関東大震災の復興橋として、後者は1921(大正10)年に事業化された「第一次大阪都市計画事業」による橋の架け替えで新たに堀江川に架けられました。この型式は桁高を薄くすることができる利点を生かして、船が行き来する河川や運河に架けられるようになります。

【鉄道橋】新屋敷架道橋(中央線,信濃町~代々木間)


【鉄道橋】飯田橋通架道橋(中央線,水道橋~飯田橋間)


どちらの架道橋も3径間で中央径間が門型ラーメン橋、左右の側径間がゲルバー桁となっています。


1927(昭和2)年

【道路橋】豊海橋(東京)

 震災復興橋の一環で日本橋川に架けられた日本で最初のフィーレンディール橋です。フィーレンディール橋はラーメン橋の一種ですが、構造計算が難しかったため架橋事例が少なく珍しい型式です。隅田川を行き来する船から合流する中小河川を判別しやすくするために震災復興の際に合流点にある橋は型式や形状が全て異なるように架けられたとされ、豊海橋も隅田川と日本橋川とが合流する地点にあります。さらに架橋位置が清洲橋と永代橋という震災復興橋梁でも特に有名な二つの橋梁の間にあったため(現在は途中に隅田川大橋がある)、それらに負けないデザインとしてフィーレンディール橋が採用されたと言われています。



1928(昭和3)年

【道路橋】外苑橋(東京)

 明治神宮外苑に架けられた3径間の門型ラーメン橋で、側径間がゲルバー桁となっています。


【道路橋】月正橋(大阪)

『大阪都市計画事業 橋梁総覧』より


【道路橋】入堀橋(大阪)

『大阪都市計画事業 橋梁総覧』より


【道路橋】木綿橋(大阪)

『第一次大阪都市計画事業誌』より


【道路橋】上之橋(大阪)

『大阪都市計画事業 橋梁総覧』より


 大阪では「第一次大阪都市計画事業」により月正橋、入堀橋、木綿橋、上之橋が台形鋼ラーメンを主桁とした上路橋に架け替えられました。



【鉄道橋】鉄道省跨線線路橋(東急池上線,五反田駅構内)

 東急池上線の前身である池上電気鉄道が架けたこの跨線線路橋は、側径間が無い1径間の門型ラーメン橋でゲルバー桁はありません。この架橋工事では橋の下を通る鉄道省(現在のJR)の線路の営業運転を休止させずに行なわれ、その工法を参考にするために鉄道省が視察に来たとも言われています。


1929(昭和4)年

【道路橋】太郎助橋(大阪)

『大阪都市計画事業 橋梁総覧』より


【道路橋】常盤橋(大阪)

『大阪都市計画事業 橋梁総覧』より


【道路橋】中之橋(大阪)


『大阪都市計画事業 橋梁総覧』より


【道路橋】両国橋(大阪)

『大阪都市計画事業 橋梁総覧』より


 大阪の「第一次大阪都市計画事業」により太郎助橋、常盤橋、中之橋、両国橋が台形鋼ラーメンを主桁とした上路橋に架け替えられました。

【鉄道橋】三明陸橋(阪和線,天王寺~美章園間)

 阪和線の前身の阪和電鉄が架けた架道橋で、関西で初めての鋼製ラーメン架道橋と考えられます。これも新屋敷架道橋や飯田橋通架道橋と同様、3径間の門型ラーメン橋ですが、中央径間の門型ラーメンに補助の支柱が設けられているのが特徴です。

 阪和電鉄では開業当初から高規格の路線と電車による高速運転が実施されており、この支柱は架道橋にかかる荷重が増大となったために講じられた対策と思われます。


1930(昭和5)年

【道路橋】大倉橋(大阪)

『大阪都市計画事業 橋梁総覧』より


【道路橋】百済橋(大阪)

『大阪都市計画事業 橋梁総覧』より


 大阪の「第一次大阪都市計画事業」により大倉橋、百済橋が台形鋼ラーメンを主桁とした上路橋に架け替えられました。

1932(昭和7)年

【道路橋】お茶の水橋(東京)

 震災復興橋の一つとして神田川に架けられた橋梁で、3径間の門型ラーメン橋が採用されました。

【鉄道橋】水道橋架道橋(中央線,水道橋駅構内)

 中央快速線に架けられた門型ラーメンとゲルバー桁の組み合わせによる8径間のラーメン高架橋です。中央快速線は翌1933(昭和8)年に開始される急行運転のために増設された高架線ですが、この区間は高架線建設で潰される道路の代替用地が確保できなかったため道路上空に高架線を設けることとなり、高架下空間を有効利用できるようにラーメン構造による高架橋が採用されました。


【鉄道橋】秋葉原駅構内(総武中央線)

 水道橋架道橋と同様に、門型ラーメンとゲルバー桁の組み合わせによる構造物が秋葉原駅構内で組まれ、既存の高架線(山手線,京浜東北線)の上層階にホームと線路(総武中央線)が建設されました。この秋葉原駅の工事では、前述の五反田駅構内の鉄道省跨線線路橋建設時の視察を活かし、下を走る既存の電車運転を休止させることなく施工されたと言われています。


【鉄道橋】高野線千本通り陸橋(南海電鉄高野線,西天下茶屋~岸里玉出間)

 3径間の門型ラーメン橋で、この架道橋は「第一次大阪都市計画事業」の一環で架けられた唯一の架道橋です。

1933(昭和8)年

【道路橋】猿楽橋(東京)

 3径間の門型ラーメン橋で線路を跨ぐ「跨線橋」です。当時の跨線橋のほとんどは線路を跨ぐ部分のみを鋼製の単純桁とすることが多かったのですが、猿楽橋では線路の両脇の道路も跨ぐ構造とするために3径間の門型ラーメン橋になったと考えられます。


【鉄道橋】目黒橋(黒部峡谷鉄道)

 この橋は富山の黒部川第二発電所建設に伴って架けられ、設計した山口文象は前述の豊海橋を参考にしたと言われています。ちなみに、戦前の鋼製フィーレンディール橋は豊海橋とこの橋の2例しかありません。

1934(昭和9)年

【道路橋】新橋(大阪)

 「第一次大阪都市計画事業」の中で「鋼ラーメン」橋に分類されている橋です。

1935(昭和10)年

【道路橋】田端大橋(東京)

内務省土木試験所編 『本邦道路橋輯覧』より


 田端大橋は日本初の全溶接の鋼橋として有名ですが、その構造にはラーメン構造が用いられています。


【道路橋】黒金橋(大阪)

 「第一次大阪都市計画事業」の中で「鋼ラーメン」橋に分類されている橋です。


1936(昭和11)年

【道路橋】曙橋(東京)  ※設計・製作のみ

 3径間の門型ラーメン橋ですが、予定の場所に架けられたのは戦後の1957(昭和32)年でした。戦時中は製作された橋桁を工場で保管されていたと言われています。

1937(昭和12)年

【道路橋】阿部野橋(大阪)

 「第一次大阪都市計画事業」の中で「鋼ラーメン」橋に分類されている橋です。立体交差の橋として架けられたようですが、詳細はわかりません。



1939(昭和14)年

【道路橋】音羽跨線橋(富士見橋)(東京)

 戦前で確認できる最後の鋼製ラーメン橋と考えられます。池袋駅付近に架けられた川越街道の跨線橋で、開かずの踏切対策で急を要したと伝えられています。




(2)へ続く




※10/26 加筆・修正分


以下の項目の内容を修正しました。

新橋

「第一次大阪都市計画事業」の中では唯一、道路橋で門型ラーメン橋に分類される橋です。ただし、左右の橋脚部分が橋台の中に埋め込まれているのでラーメン橋であることがわかりづらいです。」


→「第一次大阪都市計画事業」の中で「鋼ラーメン」橋に分類されている橋です。



以下の項目を追加しました。

黒金橋、阿部野橋



以下の項目に図面を追加しました。

高台橋、月正橋、入堀橋、上之橋、太郎助橋、常盤橋、中之橋、両国橋、大倉橋、百済橋、田端大橋

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