1.ポスト橋脚と鋼製ラーメン橋脚
ポスト橋脚とは
鋼製ラーメン橋脚の誕生に大きく関わるポスト橋脚(形鋼とレーシングバーをリベットで結合した鋼製支柱)について簡単に触れてみる。
ポスト橋脚はかつて架道橋や跨線橋に使われていた橋脚の支柱で、『鉄道技術発達史』にはこのように記載されている。
v) 鈑桁支柱
1907年(明治40年)~1909年(明治42年)に架設された東京市街線用諸橋桁の支柱は図-48 の如く柱の上下に各2個の鋳鋼より成る球面支承を用い左右の支柱は筋違および支材にて連結し横荷重に抵抗し得るよう設計されたものである。しかるにこの構造は桁の跳上り防止に欠ける処があるとして1924年(大正13年)頃には支柱の上下にピンを挿入した構造も用いられたが、現今においては再び球面支承の構造に復し、応力的には不満の点もあるが 球面の頂点にボルトを挿入し上揚力に抵抗させる構造を用いることとなった。又、原則として支柱間は筋違および支材にて連結せず、支柱支点で横荷重に抵抗させる場合にはラーメン構造を用いるのが通例である。
『鉄道技術発達史』P.1555
ポスト橋脚は年代によって上下の支承が異なり、①球面支承を用いるタイプ、②ピン支承を用いるタイプ、③球面の頂点にボルトを挿入した球面支承を用いるタイプの3パターンがあり、ここではそれぞれ「タイプ1」「タイプ2」「タイプ3」と呼ぶこととする。
①タイプ1…球面支承を用いる
②タイプ2…ピン支承を用いる
③タイプ3…球面の頂点にボルトを挿入した球面支承を用いる
ポスト橋脚のタイプ別特徴と鋼製ラーメン橋脚の関係性
タイプ1は黎明期のポスト橋脚で、上下の支承は球面支承である。また、支柱自体は左右の支柱を筋違および支材にて連結し横荷重に抵抗し得るよう設計されていた。ベルリンの高架鉄道を模したと言われる、1910(明治43)年に完成した東京の新永間市街線(浜松町~東京間)の架道橋で初めて使われた。
このポスト橋脚は架道橋や跨線橋に広く普及していったが、左右の支柱を連結する構造であったために支柱と支柱の間に道路や線路を通すことはできなかった。しかし、1922(大正11)年に竣工した淀橋跨線線路橋では線路を斜めに渡る斜橋で支柱と支柱の間に線路を通す必要が生じたため、その対策としてラーメン橋脚が採用されたと考えられる。
vi) ラーメン
ラーメンの理論はすでに19世紀にあらわれていたが実用に供するには余りに繁雑であつた。本邦においては関東大震災頃より高層建築や高架鉄道の発達にともないラーメン構造が急激に発達し斜材があつては不都合な構造物にしばしば使用された。(中略)乗越橋梁の支柱としては1922年(大正11年)に中央線新宿駅構内の淀橋跨線々路橋に使用されてから京阪間およびその他各所に使用され、又市街線用高架橋の支柱にも使用例が多い。
『鉄道技術発達史』P.1555~1556
ところが、完成から1年経たずして発生した関東大震災で淀橋跨線線路橋の球面支承が浮き上がるという事例が発生し、タイプ1で使われた球面支承が地震に弱いことが判明した。そこで上下の支承をピン支承にしたタイプ2のポスト橋脚が誕生する。
『大正12年関東大地震震害調査報告書 第1~3巻』より
しかし、このタイプ2のポスト橋脚はその後に誕生するタイプ3と比べて採用例が少ない。その背景には鋼製ラーメン橋脚ではピン支承を使うことができなかったことが大きいと考えられる。
ラーメン構造において梁と直交する方向にピン支承を設けると構造全体が倒れる動きとなるため、ピン支承の向きは梁の方向に限定される。ラーメン橋の場合は橋全体が梁にあたるため、むしろピン支承の方が都合が良い。
ピン支承の例 (猿楽橋)
ところが、ラーメン橋脚では橋梁の梁の方向にピン支承を用いると橋全体の挙動と直交し橋全体が横に振られることとなり、橋軸方向にピン支承を用いるとラーメン橋脚が倒れる挙動となるので、ラーメン橋脚にピン支承を使うことができなかった。
そこでラーメン橋脚にはやむなく球面支承をそのまま使うこととし、浮き上がり防止としてボルトを挿入することとした。この改良した球面支承がポスト橋脚にも導入されてタイプ3となったと考えられる。
この支承は汎用性が高く、ポスト橋脚は鉛直荷重のみに耐えて橋軸および橋軸直角方向の水平荷重はすべて桁自体によって橋台に伝達する構造となり、原則として支柱間は筋違および支材にて連結しないものとされた。これは支柱の連結を前提としていたタイプ1のポスト橋脚と対照的であり、また、鋼製ラーメン橋脚も支柱支点で横荷重に抵抗させる場合に使われるように変化した。
2.架道橋の鋼製ラーメン橋脚とその分布
鋼製ラーメン橋脚の使われる場所が「支柱を連結すると不都合な場所」から「横荷重の大きくかかる場所」に変化すると、鋼製ラーメン橋脚は鋼製ゲルバー架道橋にも使われるようになった。そのほとんどは門型ラーメンで、1931(昭和6)年に第一期工事が完成した神戸市街高架線の柳原架道橋を皮切りに、同じく神戸市街高架線の宇治川架道橋と穴門架道橋、大阪環状線の黒門町架道橋、近鉄大阪線・奈良線の森小路大和川線架道橋の4箇所で鋼製ラーメン橋脚が採用された。
それまで跨線橋で使われていた鋼製ラーメン橋脚がこれらの架道橋に使われた理由を考えるにあたり、まず神戸市街高架線の宇治川架道橋と穴門架道橋の2箇所の架道橋に着目すると、跨いでいる道路の直下に前者は宇治川、後者は鯉川という暗渠が存在するという共通点があることがわかる。
次に、近鉄大阪線・奈良線の森小路大和川線架道橋に着目すると、西側に隣接する架道橋名が「西ノ川橋梁」であることから、付近に「西ノ川」という河川があったことが窺え、実際に架道橋の付近には西ノ川の河川跡が存在している。それらのことから、暗渠や河川跡が鋼製ラーメン橋脚に関係すると推察される。
玉造駅の北側に位置する黒門町架道橋については、付近一帯の地質の悪さが関係していると考えられる。
「地質調査ノ結果天王寺ヨリ鶴橋附近迄ハ大阪トシテハ大體ニ地質良ク所謂地山デアル鶴橋以北京橋附近迄ハ全ク沖積層ニテ玉造附近迄ハ多少砂利層モアルガ以北ハ泥土ニテ甚ダ悪ク(以下略)」
『城東線高架改築工事概要』P.9
「設計に当り地質を調査するため、十四箇所の試錐をした結果、天王寺、鶴橋間は地山であつて、それ以北は沖積層、玉造以北は厚さ二十米の泥土であつた。」
『大阪鉄道局史』P.706-707
この地質の悪さの原因には、かつて付近にあった猫間川が関係している。
「森之宮停車場東端から、国鉄環状線の下を経て210メートル間の本線ずい道ならびに420メートル間の車庫引込線(複線)を森之宮停車場工事と同時に昭和39年10月1日に着工した。
環状線から東は道路幅員が25メートルで車道幅が17メートルのため、環状線の下のみ複線トンネルとし、それより東の部分は複々線トンネル幅員20メートルを構築して複線の車庫線を分岐することにした。
この工事区間は上町台地の東端に当り最も地盤の悪いところで、地表面から30メートル余りは完全な粘土層で、信頼できる砂層や砂礫層は全然見られない。幾千年か幾万年かの長い年月にわたり、上町台地から豪雨のたびに洗い流された土砂が沈殿してできたものと思う。環状線のすぐ東側に今里付近を起点とするいじ川(通称猫間川)があり、平野川にそそぎこんでいる。この川は昭和30年頃までは開渠で豪雨のたびにこの付近一帯がはんらんしていた。国鉄森之宮車庫建設前にこのままでは車庫が危険なため、内径3.60メートル×3.85メートルの暗渠に変更された。暗渠になってから幾分はんらんの被害は少なくなったものの、上町台地から流れこむ雨水がこの暗渠に入りきらず、集中豪雨のたびに国鉄環状線の下が浸水し、交通が遮断された。」
『大阪市地下鉄の歩み』<限定版> P.522
玉造駅の北隣の駅、森之宮駅の北側にある杉山町架道橋は、道路拡幅及び地下鉄工事によって架け替えられているが、架け替え前の架道橋が鋼製ラーメン橋脚だったか現時点で定かではない。ただし、地質から察するにその可能性は高いと思われる。
これらのことから、架道橋における鋼製ラーメン橋脚は河川からの堆積物等により地質の悪い場所に採用されたと考えられるのである。
しかし、この考察の過程で最も難解だったのは神戸市街高架線・柳原架道橋であった。架道橋付近には暗渠や河川跡が確認できず、地質についてもよくわからないままでいたが、想像よりはるか以前まで時間を遡ると一つの可能性が見えてきた。すなわち、古い湊川(古湊川)の存在である。
「(湊川の)流路にあたるこの地域は、約6000年前の縄文海進の時、海水面が現在より約4メートル高く、陸地に侵入していた。その際、海水とともに粘土が流れてきて堆積し、海成粘土層が形成された。その結果、山麓からJR兵庫駅付近までは沖積層に属する粘土層が表層に分布して、軟弱湿地帯となった。(中略)「古湊川」は、山麓の扇状地から市街地に入って軟弱な湿地帯を通り、砂州に阻まれ、その手前で海へと流れていたのである。」
『歴史と神戸』「古湊川の流路について ―福原遷都と湊川―」P.32-33
かくして、柳原架道橋のあたりは古湊川による軟弱地盤の可能性が明らかになったのである。
支承の変遷により鋼製ラーメン橋脚の使われる場所が「支柱を連結すると不都合な場所」から「横荷重の大きくかかる場所」に変化したと前述したが、抵抗すべき横荷重が加わる場所とは地質的に悪い場所のことであり、逆を返せば鋼製ラーメン橋脚の架道橋がある場所には目に見えない河川が存在する可能性があるとも言える。
第二次世界大戦後、1966(昭和41)年に完成した中央線の中野荻窪間高架化では、環状7号線橋梁で鋼製ラーメン橋脚が見られる他、高円寺駅周辺の高円寺高架橋・高円寺西高架橋で鋼製ラーメン構造が採用されている。それらが採用された背景を考慮しながら地図を見ると、付近に暗渠または河川跡と思しき形状を確認することができる。
環状7号線橋梁
環状7号線橋梁の鋼製ラーメン橋脚
高円寺高架橋
なお、これまで見てきたのはいずれも門型ラーメンであったが、π型ラーメンである西吹田架道橋については地質との関連性はまだわからない。
以上のことをまとめると、
①左右の支柱と連結する必要があったタイプ1のポスト橋脚では対応できない跨線橋のために鋼製ラーメン橋脚が誕生した。
②関東大震災で球面支承の地震に対する弱さが露呈したが、鋼製ラーメン橋脚にはタイプ2のピン支承を使うことができなかった。
③そのため、改良した球面支承を使うこととしたが、今度はそれがポスト橋脚にも採用されてタイプ3となった。
④左右の支柱を連結する必要が無いタイプ3の誕生により、鋼製ラーメン橋脚は「支柱を連結すると不都合な場所」から「横荷重の大きくかかる場所」、特に暗渠や河川跡など地質の悪い場所に使われるようになった。
という変遷を辿ったと考えられる。この場合の鋼製ラーメン橋脚はタイプ1から派生して露呈した欠点を補った結果、ポスト橋脚の改良を促し、さらにはそれがフィードバックされて鋼製ラーメン橋脚自体の用途も変化したと言うことができる。
また、同じような形であっても歴史的背景を紐解くと、線路を乗り越える線路橋の橋脚と道路を跨ぐ架道橋の橋脚とでは構造的に使われ方が異なるのも面白いところではある。
ところで、この鋼製ラーメン橋脚の架道橋は首都圏ではほとんど見られず、関西圏に集中している傾向がある。これは鋼製ラーメン橋脚の嚆矢が1922(大正11)年竣工の淀橋跨線線路橋と考えられるものの、その時点で首都圏では鉄道高架線のほとんどが着工・完成していたため新たに導入する機会が無く、一方、関西圏では、その3年後の1925(大正14)年から鉄道高架線が建設され始めたため、新技術として鋼製ラーメン橋脚を導入できる状況であったと考えられる。
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