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04-06 鋼製ラーメン構造の橋梁の誕生と歴史的背景

更新日:2020年11月30日

 近代日本で橋梁における鋼製ラーメン構造(鋼製ラーメン橋、鋼製ラーメン橋脚)が採用された時期は1920~30年代に集約され、これは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のいわゆる「戦間期」と合致する。鋼製ラーメン構造の橋梁が登場し隆盛した背景には、この時代特有の事情が絡んでいると考えられる。



1.新素材の台頭と1920年代

 1920~30年代という時期はモダニズム建築の隆盛とも被る。モダニズムはそれまでの伝統主義を否定し全く新しいスタイルを追求する傾向であるが、それが建築に及んだ時にその下支えとなったのが鋼鉄やガラス、鉄筋コンクリートといった新素材の登場であった。石やレンガ、木材等の既存の素材ではなし得なかった造形が新素材で可能であると判明すると、それまでの造形に囚われない新たな造形への追求、すなわち反伝統へと傾いたと思われる。土木でも同じことが言え、鋼鉄と鉄筋コンクリートの登場が構造物のデザインに急激な変化と可能性を与え、その中で生み出されたものの一つがラーメン構造であったと言える。

 「Rahmen」がドイツ語で「フレーム、枠」を意味するように、ラーメン橋は20世紀初頭のドイツで誕生したと言われる。その基礎となるラーメン構造はいつどこで誕生したかは定かではないが、柱と梁を剛結合させるという発想は建築から生まれ、橋梁に転用されたと考えられる。

 日本の建築の転機は1891(明治24)年10月に発生した濃尾地震で、それまで多くの洋風建築に採用されていたレンガや石材を積む「組積造」の脆弱性が顕在化した。そこで主要構造材として着目されたのが鋼鉄であった。1902(明治35)年、後に橋梁にも進出し、横河橋梁を興す横河民輔によって鉄骨とレンガを組み合わせた三井本館が完成する。さらに1909(明治42)年、コンクリート技術も導入されて日本で最初の鉄骨コンクリート(RC)造の建築物と言われる日本橋丸善が佐野利器の設計の下、清水組の施工によって完成した。このように明治から大正にかけて鋼鉄とコンクリートの技術が発達していく過程のどこかで、日本の建築業界でもラーメン構造が取り入れられたとしても不思議ではない。

 一方、ラーメン橋が日本に紹介された例は、調べ得る限りで1905(明治38)年発行の工学会誌に寄稿された服部鹿次郎「伯林高架及地下電気鉄道」の中に出てくるのが最古と思われる。


高架線路ハ肱木(かんちりばー)構造ニシテ搆桁ハ支柱ト充分ニ結合シ支柱ハ地表ニテ單ニ凹窩ニヨリテ支ヘラルヽノミ。是レ地表ニ於ケル湾曲率ヲ滅却シテ其横斷面ヲ小サクシ道路ニ對スル障碍ヲ輕減セントスルナリ。
服部鹿次郎 「伯林高架及地下電気鉄道」(読点追加)

 ここで紹介された路線はベルリンSバーンのうち、ジーメンス・ハルスケ(Siemens & Halske AG)の従業員輸送を目的に建設された「ジーメンス線」のことである。文中の「搆桁ハ支柱ト充分ニ結合シ」がラーメン構造を表しており、図にもラーメン構造の支柱の様子が描かれている。

 ところで、ベルリンの高架線には1882年(明治15)年に開業した、レンガ造が主体の「ベルリン市街線」もあり、1909(明治42)年に開業した東京の鉄道高架線(新永間市街線)ではこちらを参考に造られた。上記の通り、新永間市街線の建設時にはラーメン構造が既に存在していたことになるが、騒音を抑える効果を狙った他、当時の日本では自国製の鋼材を満足に供給するには至っていなかったためレンガ造が採用された。鋼材の安定供給の遅れから日本では鉄筋コンクリートによるラーメン高架橋が先に実用化され、1919(大正8)年に開業した東京万世橋間高架線で採用されている。

 また、ドイツの高架線の変遷からも構造材がレンガから鋼鉄やコンクリートに移行する過渡期であったことが窺い知れる。建築においても鉄筋コンクリート造や鉄骨造が主流となると、レンガは構造材から仕上げ材として用いられるようになり、建築におけるドイツ表現主義を体現する素材へと変貌することになる。そしてそのドイツ表現主義が隆盛となったのは、やはり1920年代であった。



2.橋梁美と関東大震災

 開国の当初は諸外国に追い付くために「富国強兵」を謳って外国から新しい技術を次々と導入していたが、明治も終わり頃になると次第に国内の技術力や生産力が向上した。大正になるとそれがますます顕著になり、国産技術で賄えることが増えていった。それは橋梁技術も同じであった。

 当初、鉄道用トラス橋は鉄道技術を導入したイギリスに倣ったものが製作されていたが、イギリス式の橋梁は経験則に従って製作されていたために部材が太く大きい割には設計荷重が小さく、機関車の大型化に対応できなくなっていた。そこで官営鉄道は理論的・構造的に明快で当時最先端の橋梁技術であったアメリカ式橋梁の導入を決定すると、1899(明治32)年~1915(大正4)年にかけて大量のアメリカ式トラスが輸入された。ところが今度はアメリカ式トラスの特徴でもあるアイバ―によるピン結合の欠点が次第に露呈すると、鉄道院は明治の末期にはリベット結合トラスへと方針を転換し、アメリカからの輸入が終わる頃から橋梁の国産化が始まったとされる。

 一方、阿部美樹志が1920(大正9)年に事務所を開設したのを皮切りに、1921(大正10)年には“日本最初の橋梁コンサルタント”とされる樺島正義、1922(大正11)年には増田淳、さらには1924(大正13)年に関場茂樹がそれぞれ事務所を開設している。彼らはアメリカで構造一般を修業し、同時にコンサルティング・エンジニアという考え方も学んだと考えられる。こうしたプロの構造家という職能意識の高まりもまた橋梁デザインに大きく作用したのは想像に難くない。彼らのように独立はせずとも、太田圓三や田中豊のように役所や鉄道省、東京市や大阪市などの自治体で橋梁に携わったエンジニアの意識もまた高かった。技術が高まり、橋を架けることから橋梁のデザインへと視点が移り変わった時代とも言える。

 そんな中、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は東京・横浜を含む関東一帯に甚大な被害を及ぼした。地震の揺れによる建物の倒壊もさることながら、それ以上に大火災による延焼で多くの人命が失われた。そのため、震災後は特に耐震・耐火構造への関心が高まった。


戦前において,鉄骨柱梁の剛接合は,多くはリベット,特別な場合はボルトによって行われていた。震災の経験で,接合部の破損や変形が大きく,接合の不完全さが認識されるようになり,この部分の技術的な改善も,耐震性を強化する方法と考えられた。鉄骨をRCで覆ったり,要所に耐震壁を設けたりする方法は,この欠点を補うものでもあったが,接合部自体の強度が十分に確保できれば,耐震化に大きく貢献する。内藤多仲は,この点についても実験を重ねるが自身ではまとめず,彼とともに溶接技術などを研究した鶴田明が引き継いだ。
「材料からみた近代日本建築史 その10 ~戦前における鉄骨造建築の発達~」

 震災によって柱梁の接合の破損や変形を防ぐ観点から、接合部を剛結合したラーメン構造への関心が高まったと考えられ、1924(大正13)年に行われた講壇で太田圓三がラーメン構造について触れている。


又橋梁の形式から申しても地質の良い所には拱橋の如きを用うるとか、又は普通の場合に單桁を架設するにしても、兩端の径間にラーメンを用ひ、このラーメンが中央の径間の支保物になる様にするのが宜しからうと存じます。こんなやり方の構造物は地震に對して比較的有利なる爲、損害が少なかった例は見受くる所でありました。構造上拱橋になると、橋臺の基礎が大きくなり、バッキングの掘り込み可成り大きくなりますが、3徑間を用ゐて其兩端の徑間をラーメンとしたものは、其掘り込み方が少なくてすみますから、東京の様な雑踏の所には、後者を用ゆる方が施工上甚だ有利であると考へます。
太田圓三「帝都復興事業に就て」

 これは厳密には「ラーメン橋」ではなく「ラーメン橋台」についてになるのだが、ラーメン構造が「地震に對して比較的有利なる」と判断されたことが窺える。

 さて、関東大震災の復興の一環で架けられた隅田川橋梁群は橋梁技術の集大成となり、“橋の博覧会”とも称される。隅田川本流に架ける橋には、トラス構造を用いない、架橋箇所の周囲の環境や地質に沿ったデザインとする、同じ形の橋は架けない、といったルールに則って橋梁がデザインされた他、ニューマチックケーソン工法やデュコール鋼の採用など当時最新の技術や材料を投入して後世に伝承する意図も含まれた。


(略)大正十年に至り隅田川橋梁中の永代、吾妻等を始め多くの橋梁が經年の爲改築の運に至つてゐたが、偶々大正十二年の大震火災に際し帝都の諸橋梁は空前の災厄を蒙つた。即ち帝都の橋梁總數六百十八橋の中二百八十九橋は、焼失破壊墜落の運命に遭ったのである。併し乍ら國を擧げての後援と堅忍不拔の市民の努力とに依り帝都の復興事業は着々と其歩を進め永代、淸洲、両國等近代都市の精華を生みこゝに後世に誇るべき大正、昭和の所謂橋梁躍進時代を現出するに至つた。此等の復興橋梁は何れも最新の學理に基いて建設されたもので、外觀には特有の構造美を發揮し、よく環境との調和を保つて居る。其構造と技術とが我國橋梁工学の進歩に寄與したる功績は甚だ大なりと言ふべきであらう。
「東京市土木読本」P.15~16

 橋梁デザインへの意識の高まりが構造美、すなわち「橋梁美」への追求に及ぶ中で、新しい構造であったラーメン構造にもその可能性が見出されていた節がある。


(略)
次に橋梁を審美的目的物として即ち橋梁美として考察して見ると、元來美なるものゝ標準が鑑識眼の立脚點及嗜好の變遷に持つべきものであるから、橋梁美の標準は自ら時代と共に變化すべきものである。然し橋梁美は橋梁美への主たる對照が橋梁主體の形態に関する限り自ら限度がある理で、橋梁出現に對する自然的及社會的條件を基とし構造形態を主流とする不変妥當なる一つの體系が生るべきは當然であつて、此の體系を僞らず率直に具顯し、構造其のものゝ自然的諧調を以て美の表現となすもの之近代の風潮であり、此の風潮が徒に雑然たる附加的装飾物に依る過去の橋梁美に對しての進歩である。假りに過去より現在に及ぶ橋梁美の變化を以て將來を律し得るならば、將來の橋梁美は益々上述の所謂構造表現美が尊ばれるに至るであらう。率直に端的に構造を具顯し、此のものに依って美を發揮せしめんとする傾向は、複雑を單純に、曲線を直線に、變化を不變化に、而して其の間全體としての統一と諧調を保つ所謂上品なる單純味を發揮し且つ必要性を充分に具顯するものとなって現れるであらう。
橋梁以外の一般構造物、例へば高架鐵道、地下鐵道の構築洞渠、道路の立體交叉に採用される高架構造の諸型式、排水塔等に於て認められる一般的進歩の跡は構造、材料型式等に於て其の主潮を橋梁と殆ど軌を一にしてゐる。
之等各種構造物を通じて看過してならない共通的なる一つの事象がある。それは各種ラーメンの應用である。ラーメンの採用される理由は單純なる靜定構造物よりも、強度を充分發揮し得て所要の空間を充分に把握し得られ、而も美的充足を達成し得られるの利があるに因る。
ラーメン等の不靜定構造物に對する力學的解法の普遍化、鐵筋コンクリート工学の發達並に施行法の一般的發達は橋梁構造物の進歩發達の根本をなしてゐるとも云へる。又立脚點を變へれば橋梁構造物等の必然的要求が不靜定力學の發達、及コンクリート工學の進歩を促し、更に施工法の改善を要求したとも云へる。
徳善義光『土木工学最近の進歩』第5篇 橋梁並に構造物 P.60~61

 この中では、まず「構造其のものゝ自然的諧調を以て美の表現となすもの之近代の風潮であり、此の風潮が徒に雑然たる附加的装飾物に依る過去の橋梁美に對しての進歩である」として橋梁美をモダニズム建築のように捉えており、その上で強度も空間も充分に得られつつ美的充足をも得られる構造であるのがラーメン構造であるとしている。実際にそうした考えもラーメン橋の架橋を後押しした可能性がある。



3.ワシントン海軍軍縮条約

 1922(大正11)年のワシントン海軍軍縮条約、および1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮会議の締結により戦艦等の保有数に制限が設けられた結果、そこで使われるはずだった鋼材や溶接技術が民間に流れた。


大戦後熔接界に影響を及ぼしたる形勢として二つのものが考へられる。一つは大戦中に醸成せられたる過剰生産品が我国に殺到し、我国の市場を攪乱したので輸入防止、國産奨励の聲が大となつたことで他の一つは軍縮會議の結果巨艦巨砲の製作を中止し軍艦の新造は制限噸数内に限られたことである。
(中略)
軍縮會議の結果巨艦巨砲の製作が中止されたので之に對する資材工場の設備がお茶を引くに至つたから、之れ等工場の生産する鋼材が民需に放出された。
佐々木 新太郎『日本熔接技術発達史(I)』 P.26-27

 同じ理由で、同時期に船舶向けに開発された特殊鋼「デュコール鋼」が橋梁材として使われている。


 従來橋梁材は主として炭素鋼を用ひ特別なる場合には硅素鋼又はニツケル鋼を用ひるものであるが、我復興局にては永代橋及び清洲橋を製作するに當り、従來の慣例を破りて其主要材料としてヂューコール鋼を採用することに決定され其製作方を我川崎造船所に下命されたのである。
 此鋼材は1922年頃造艦材料として發明され其後も専ら造艦材料として研究されて來たのてあるが、最近漸く軌條鋼其他にも採用さるゝに至つたのである。然し橋梁材として使用されたのは實に我永代橋が世界に於ける嚆矢である。それ故に其製作をなせし我工場は斯界に對し世界的先鞭をつけたわけである。此鋼材が橋梁材として果して優秀なるか否かは幾年かの後には吾人の眼前に生きたる證明が展開さるゝわけであるが、今此處の其製作並に製品成績を報ずるのも強ち無益なことではなかろう。
谷山巌「橋梁材としてのヂューコール鋼」

 余剰鋼材とともに、もともと船舶、特に戦艦向けだった溶接技術もデュコール鋼をはじめとする高張力鋼も軍縮条約の煽りを受けて民間に流れたが、その背景には民間側も溶接技術も高張力鋼も導入できる機会を窺っていた節がある。

デュコール鋼を橋梁で初めて用いた永代橋は関東大震災の復興橋の一つだが、関東大震災の発生がワシントン軍縮条約の翌年であり、かつ永代橋の架橋が決定したのが1926(大正15)年であったことを勘案すると、橋梁技術者の間では震災以前から既にデュコール鋼に目を付けていた可能性があり、同じく溶接技術への取り組みも建築より橋梁の方が早かったと思われる。


明治から始まった日本の溶接技術は、大正期にまず船舶から実用され始めた。その進歩を促した一因は海軍の溶接艦船への注力にあった。軍縮条約による排水量の制限に呼応して、艦艇重量軽減のため、溶接化と高張力鋼の研究が大正年間から盛んに行われたのである。こうした動きをにらみながら、橋梁への溶接の取り込みは早かった。
 橋梁への適用例は昭和5年から始まった。工場継手ではなく、現場接合にも溶接を用いたのが当時の特徴で、内務省による横浜港瑞穂埠頭の鉄道橋(9年)、道路橋では鉄道省による東京田端の跨線橋の田端大橋(10年)などが代表例である。このほか一般の道路橋や水道橋など、第二次大戦に入る前に計15橋の溶接橋の建設が見られた。
『鉄の橋百選 -近代日本のランドマーク-』P.17 

 村松貞次郎博士によれば,溶接技術の採用と発達は,造船分野で先行した。性能向上を兼ねた艦艇の重量軽減や高圧蒸気タービンに関する技術的な要求から注目されるのである。とりわけ,1922年のワシントンの軍縮会議を機に技術革新が進み,次第に建築にも応用されたという。
 日本では,市街地建築物法でリベットに限定されていた鉄材の接合が1932年に緩和されて以降,建築での実作が見られるようになる。それ以前にも,上記法の対象外である軍や鉄道の施設では溶接による鉄造建築は存在したようだが,鶴田の報告によれば,法規の許した最初の全溶接建築は,1936年に竣工した松尾橋梁第二工場であった。
「材料からみた近代日本建築史 その10 ~戦前における鉄骨造建築の発達~」

 だが、1936(昭和11)年12月、日本はロンドン海軍軍縮条約を破棄し戦艦建造へと転換したため、それまで民間に流れた鋼材や溶接技術は改めて軍事に優先されることとなった。


しかし,そうした技術が実を結びつつあった頃,戦争によって鋼材や溶接技術者の供給が軍事方面で優先される。さらに1937年10月に鉄鋼工作物築造許可規則,1938年4月には国家総動員法が公布され,鉄造建築の建設そのものも抑制されていく。結果,建築での溶接は,補強などで部分的に使われることはあっても,戦前において主流となることはなかった。
「材料からみた近代日本建築史 その10 ~戦前における鉄骨造建築の発達~」

 一方で、質的向上を計って計画建造された千鳥型水雷艇「友鶴」が限られた排水量の船内に過重な兵装を艤装した結果、重心上昇と復原力の低下を招いて転覆した「友鶴事件」や、溶接部の強度不足から荒天時の波浪で半数近くが損傷を受けたとされる「第四艦隊事件」など、条約の制限によって造船技術的に無理を強いられた海軍は、当然ながら条約破棄を歓迎したと見られる。


この最初の新造計画は昭和十二年度補充計画(第三次補充計画、略称㊂計画)であって、昭和十二年度から十六年度に至る五ヵ年継続事業、総額八億六五五万円の予算で戦艦二隻を含む艦艇七〇隻を建造せんとするものであり、昭和十一年度末に決定した。さらにこの計画には翌十三年度で追加があり、実際の建造艦六九隻、合計基準排水量三〇万五〇〇〇トンである。
この建艦案による新造艦の性能には、すこぶる注目すべきものがある。すなわち軍縮条約による一切の制限から解放された上、予算上からもいちじるしく束縛が緩和され、海軍多年の宿望が初めて量的にも満足された。
単艦能力の極度発揮のためかえって無理を生じた苦い体験は、十二分に活用された。すなわち友鶴および第四艦隊事件に鑑みて造船技術上の一切の無理が排除され、確実に用兵上の要求、すなわち兵装、防御力、運動性および居住性を具備した艦が設計された。
福井静雄『日本軍艦建造史』 P.34

 軍艦建造に用いられる技術が民間に転用された結果、豊富な材料と技術向上によって橋梁技術は飛躍的に進歩した。鋼製ラーメン橋も、新しい技術を導入できる素地と余裕ができたからこそ可能となった橋梁型式と捉えることができる。



4.昭和恐慌と失業者対策

 1929(昭和4)年10月24日に発生したニューヨーク・ウォール街の株価大暴落、いわゆる「暗黒の木曜日」で端を発した世界恐慌の煽りを受け、日本では昭和恐慌が起き失業者が街に溢れた。政府や各自治体では公共事業を立ち上げて失業者対策に乗り出すこととなったが、そのほとんどは土木事業であり、道路事業では路線拡大と舗装化、鉄道事業では線路高架化、河川事業では拡幅や浚渫、暗渠化などの工事が各地で行なわれた。この背景には失業者対策ではありつつも、同時に各自治体には都市の美観を整える意図を垣間見ることができる。

 失業者対策と鋼製ラーメン橋の架橋に直接的な影響があったわけではないが、道路路線の拡大や線路高架化といった工事が間接的に架橋に作用したと考えられる。



まとめ

 1920~30年代の、いわゆる「戦間期」の歴史的背景は以下のようにまとめることができる。


◆鋼鉄やコンクリートといった新素材の台頭による建設可能な構造の変化

 とモダニズム建築の流行

◆国産橋梁技術の向上と橋梁デザインに対する意識の変化

◆軍縮条約による材料と技術の民間流出

◆失業者対策による公共事業の増加


 実はこれらは、戦間期に日本の橋梁技術の隆盛があった要因を表しているにほかならない。この発達した橋梁技術があったからこそ鋼製ラーメン橋・ラーメン橋脚が誕生し、また結果的にこの時期に集約されることとなった。また、当初は方杖ラーメン橋が小河川に採用されたが、次第に門型ラーメン橋や門型ラーメン橋脚が鉄道と道路の立体交差に多用されるようになった結果、立体交差を必要とする都市部、特に東京と大阪に限定的に分布するようになったと考えられる。このように鋼製ラーメン構造の橋梁には年代や地域が限定的であるという特徴がある。

 現在、高速道路上の立体交差に鋼製方杖ラーメン橋をよく見かけるようになるなど、戦後の更なる橋梁技術の発達によりフィーレンディール橋を含むラーメン橋が架けられるようになったため、ラーメン橋自体は特に珍しい橋ではなくなった。しかし、鋼製の門型ラーメン橋に限れば現在ではまず架けられることのない橋梁型式であり、当時の橋梁技術を知る手掛かりとして捉えることができるのである。



<参考文献>

『橋梁設計図集 第一輯』復興局土木部橋梁課編,シビル社,1928年

『大阪の橋』松村博著,松籟社,1987年

『第一次大阪都市計画事業誌』大阪市,1944年

『東京の橋ー水辺の都市景観』伊東孝著,鹿島出版会,1986年

ブルーバックス『東京鉄道遺産「鉄道技術の歴史」をめぐる』小野田滋著,講談社,2013年

『東京の橋100選+100』紅林章央著,都政新報社 2018年


小池啓吉「御茶之水橋架替工事」土木建築雑誌第9巻第11号,1930年11月

徳善義光「市街橋としての鋼鈑框橋」エンジニア―第10巻第8号,都市工学社,1931年8月

『日本土木史 大正元年~昭和15年』,土木学会編,1965年


安野彰「材料からみた近代日本建築史 その10 ~戦前における鉄骨造建築の発達~」 建築施工単価,2015年冬号


太田圓三「帝都復興事業に就て」土木学会誌第十巻第五号,1924年10月

『東京市土木読本』東京市役所,1936年5月1日

『土木工学最近の進歩』「第5篇 橋梁並に構造物」,徳善義光著 ,工業図書株式会社,1939年8月20日

佐々木 新太郎「日本熔接技術発達史(I)」,溶接学会誌,1948年17巻1号

谷山巌「橋梁材としてのヂューコール鋼」,鐵と鋼,1929年15巻4号

『鉄の橋百選 -近代日本のランドマーク-』成瀬輝男編,廣済堂印刷株式会社,1994年

『福井静雄著作集/第十二巻 軍艦七十五年回想記 日本軍艦建造史』福井静雄著,株式会社光人社,2003年

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