1.草津宿の発展と草津川
琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川に架かる瀬田橋は東西の交通の要で、「瀬田橋を制する者は天下を制す」とも言われ、瀬田橋を挟んだ両岸の大津と草津を押さえることが重要視されていたという。
(1/20000『京都及大阪』より)
その中で草津は、室町幕府が伊勢参詣のための「草津御所」が1465(寛正6)年から1466(文正元)年にかけて建設されたように、交通の要所として確立していくようになる。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1601(慶長6)年に東海道を、1602(慶長7)年に中山道の整備を開始し、前者は1624(寛永元)年に、後者は1694(元禄7)年にそれぞれ完成した。草津は東海道と中山道とが分岐・合流する「草津宿」として、本陣・脇本陣・旅籠屋が立ち並ぶ宿場町として発展していった。1803(享和3)年の時点で家数は522軒を数えたという。
(東海道分間延絵図より)
(歌川広重『東海道五十三次』「草津」)
2軒あった本陣のうち、1軒は現存し保存されている。
かつての草津宿は草津川の左岸に位置していた。
(1/20000『草津』(明治28年) より)
江戸へ向かうとした場合、東海道はしばらく川に沿ってから川を渡るのに対し、中山道は東海道から分岐してすぐに草津川を渡るコースを辿った。
東海道と中山道との分岐点を示す追分道標が残されている。
中山道の方には天井川の草津川をくぐる草津川隧道がある。
草津川は延長13km、流域34㎢の一級河川で、金勝山(こんぜやま)を源とする。
この金勝山系の山々と隣接する田上(たなかみ)山系の山々とを合わせて“田上山(たなかみやま)”と総称され、一帯は白亜紀の花崗岩で構成されている。
田上山は江戸時代にすでに荒廃の一歩手前の状態であり、草津川の土砂流入量が次第に増えていったと考えられる。
1734(享保19)年に完成した地誌『近江輿地志略』において草津川は以下のように記されている。
草津村はづれにあり。土俗砂川といふもの是也。此川平常水なし雨降る時は必水を出す尤急流なり。此川東にて金勝川と号し、此辺にては草津川とも砂川ともいふ。(中略) 川幅十間許、川上は小石交りの川にして川下草津近辺にて白砂なり。
ここでは、河床の上昇に伴って流水の及ぶ範囲が上流に後退しているために平時には殆ど枯れているがひとたび増水すると氾濫するという、天井川の特徴を読むことができる。
実際に草津川は1756(宝暦6)年、1781(天明元)年、1802(享和2)年にそれぞれ大洪水を起こしている。
中でも1802年の大洪水では、金勝川との合流地点で破堤、草津宿に濁流が流れ込み、流出・倒壊家屋300軒、死者40名を出した。この頃から天井川を形成しつつあったと思われる。
また、「膳所領郡方日記」によると、現在の国道1号線と草津川が立体交差していたあたりでは、文化頃(1804~1817)から年々河床に土砂が堆積し、天保年間(1829~1847)には家よりも高くなったと記されている。
そのため、1756(宝暦6)年の大洪水以降土砂流出が特に著しくなり、天保頃から草津川が天井川化したと考えられる。
渓斎英泉および歌川広重による浮世絵木版画の連作『木曽海道六十九次』は1835(天保6)年から1837(天保8)年頃の作品とされており、ちょうど草津川が天井川と化した時期と重なる。
その中の「草津追分」には、68番目の宿場町・草津宿として当時の草津川の様子が描かれている。
(渓斎英泉,歌川広重『木曽海道六十九次』「草津追分」)
浮世絵は草津川から草津宿を眺めた構図となっており、中央奥には追分道標の姿が確認できることから、道標から中山道に入ったあたり、すなわち、現在の草津川隧道付近と推察される。
手前の細い流れが平時の草津川で、渡れるように仮橋が架けられている。
左右の堤防は草津川の堤防で、本来なら左右の堤防が繋がって一体となっているところ、通行できるように一部が切り下げられていた。絵では堤防の切り下げられた部分が低すぎるが、実際には堤防としての役割を担うだけの高さはあったと思われる。
2.田上山の荒廃
田上山は飛鳥、奈良時代以前は檜や杉などが鬱蒼と茂った美林であったといわれているが、690年代に藤原宮の造営に要する木材の伐出や、740年代には石山院(現在の石山寺)造営に際し木材が伐出したとされる。
万葉集には大和国藤原宮造営のとき、田上山から「ヒノキ」の良材を伐り出し、筏で瀬田川、宇治川を下り大和に運んだ状況を詠んだ「藤原宮之役民作歌」があり、正倉院には奈良七大寺(東大寺、西大寺等)の建設に田上山の用材を使用した記録が残っている。
【万葉集 巻一 集歌50】
ふじわらぐうのえのみたからのつくれるうた
藤原宮之役民作謌
やすみしし わがおほきみ たかてらす ひのみこ あらたへの
八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃
ふぢはらがうへに をすくにを めしたまはむと みあらかは
藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者
たかしらさむと かむながら おもほすなへに あめつちも よりてあれこそ
高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽
いはばしる あふみのくにの ころもでの たなかみやまの
磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之
まきさく ひのつまでを もののふの やそうぢがはに たまもなす うかべながせれ
真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼
そをとると さわくみたみも いへわすれ みもたなしらず かもじもの みづにうきゐて
其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而
わがつくる ひのみかどに しらぬくに よしこせぢより わがくには とこよにならむ
吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟
あやおへる くすしきかめも あらたよと いづみのかはに もちこせる まきのつまでを
圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎
ももたらず いかだにつくり のぼすらむ いそはくみれば かむながらにあらし
百不足 五十日太尓作 泝須郎牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮
(傍線挿入)
その後、奈良時代以降に数多くに寺社仏閣の建立に木材が切り出されており、室町、安土桃山時代には戦火の影響を受けて1600年頃には既に荒廃の一歩手前にあった。
1608(慶長13)年、1612(慶長17)年、1614(慶長19)年に淀川流域一帯に大水害が発生し、1653(承応2)年には、野洲川が決壊し約50町歩の田畑が荒地となった。幕府は1660(万治3)年に、大和・伊賀・山城の国に対し「木根掘取禁止、禿山に苗木植付、土砂留の施工」を命じている。
1662(寛文2)年と1665(寛文5)年には栗太郡も災害を受け、1666(寛文6)年には幕府が「諸国山川の掟」を発令し、草木の根を掘り取ることを停止し、川上の樹木なき所に苗木を植付、焼畑および河辺の開墾を禁止している。また、淀川水系では、河村瑞賢の言を入れて貞享年間(1684~1687年)に膳所・淀の城主に瀬田川土砂留奉行を命じ、水源山地を見分し、土砂が流出する箇所はその地の村々に土砂留を施させた。
1669(寛文9)年に幕府は主要な役人に畿内の被災状況を実地検分させ、淀川の浚渫費を各大名に課している。1670(寛文10)年には瀬田川の浚渫が施工されている。
1683(天和3)年に淀川流域に大水害が発生した際、幕府調査団の一行に上木水利に詳しい河村瑞軒が参加した。彼は水源山地の樹木が殆ど伐採されており、一旦雨が降ると山々が崩壊し、この土砂が上下流に流出して河川を埋め、洪水となり河川の氾濫の原因となっている点に着目し、「これを救うには乱伐を禁じて植樹を奨励する以外にはない」と進言して山林保護の徹底を期待した。また、瀬田川の凌深や山地の土砂留工、土砂留奉行や土砂留方与力の設置等、種々の提言がなされた。
1686(貞享3)年、江戸幕府により土砂留工(現在の砂防工事)が施工された。これが田上山の砂防工事の始まりと言われている。
このように江戸時代は治山治水対策が組織的な事業として行われたが、安永・天明年間(1772年〜1788年)の飢饉等で農村が不況に陥って以降、幕府の監督体制もゆるみ、設計・施工技術の低下をはじめ、山腹工事の施工自体が衰退した。
結局、1867(慶応3)年まで約180年間で土砂留工事を施工したが石積が所々残存する程度で失敗したところが多く、下流淀川本川は流出土砂の堆積によりたびたび水害が発生した。
田上山周辺の山地域からの土砂生産、土砂流出の影響は、明治初頭には大災害となって現れる。1868(明治元)年、1871(明治4)年、1885(明治18)年、1889(明治22)年、1896(明治29)年に、淀川で洪水による堤防決壊が発生し甚大な被害が発生している。
特に1885(明治18)年、1896(明治29)年の洪水は大阪市内に甚大な被害を与えている。
1868(明治元)年9月には、木津川合流点付近1里にわたり堤防が決壊し、三川合流地帯は湖となり淀町等は流砂に埋もれたという。また同年5月には、淀川本川でも前島村や広瀬村で堤防が決壊、大塚村、吹田村、別府村などの20余ヵ所の堤防が崩壊し、東成郡11ヵ村、西成郡40ヵ村、住吉郡6ヵ村、島上郡31ヵ村、島下郡56ヵ村、豊島郡21ヵ村で大水害が発生している。
これらの災害を契機に淀川の治水対策が実施されることとなり、明治政府は淀川の船運確保対策を考え、木津川の付替工事を始めるとともに土砂留調査に着手し、治水(船運)のためには山林の整理に併せて砂防(治山)事業の緊急性を痛感した。
森林の所有については、1869(明治2)年に官林制度が定まり、1870(明治3)年には社寺有林の上地命令がなされており、大津国有林の母体(所有形態)が形成されたと思われる。ただし、この時の管理は県に委託されている。
1871(明治4)年になり、政府は5畿内(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国)および伊賀国に対し「砂防5カ条」を布達し、木津川水源土砂留工事費を当分官費をもって支払う旨を通告している。
1872(明治5)年には、施行対象地として、大戸川、草津川及び野州川の水源禿赭地(はげ山)と記録され、工事費は全額国費で賄われた。
1873(明治6)年、「砂防5カ条」は淀川水源砂防法に統一され、京都府、大阪府、奈良県、堺県、滋賀県、三重県にそれぞれ通達された。
1896(明治29)年に河川法が、1897(明治30)年には森林法及び砂防法がそれぞれ制定され、国有林野事業として治山事業が開始されることとなる。
3.木津川流域の天井川
宇治川・桂川との合流点までの木津川下流域は山城盆地となり、「山城」の名に象徴されるように東西を高度200~500mの低い丘陵に囲まれている。木津川の支川はそれぞれ丘陵の山麓部に扇状地を広げ、扇央部から扇端部にかけて典型的な天井川を形成している。
(1/50000『奈良』より)
各河川の天井川化はいつ頃から始まったのか定かではないが、藤原京造営時に田上山から切り出された木材の輸送ルートが、
田上山→瀬田川→木津川→泉津→藤原京
となっており、その途中の木津川右岸の山城国南部の泉の杣においても木材が伐採されたと考えられている。
その後、遷都により誕生した平城京においても、その造営には近江の田上山の木材が伐採された他、丹波や伊賀の国々からも木材が集積された。
近江:琵琶湖→宇治川→木津川→泉津
丹波:保津川(桂川)→木津川→泉津
伊賀:木津川→泉津
この時、泉津から平城京までは陸路で木材が運搬された。
木材は建築資材である一方で、薪としても利用されていた。
瓦焼き用の薪としては、遷都の度に造営される新都の建築物に使用する瓦が焼かれていた。建物の規模や数が増大すればするほど、必要な瓦の枚数も増え、そのための薪の需要も増えた。東大寺建立の際には大仏殿だけで20万枚の瓦が必要だったと試算されることから、相当な木材が必要だったのは想像に難くない。
しかし、瓦焼きの需要は一時的なものだが、日常生活における薪の需要は永続的なもので、特に都市周辺の森林が大きな影響を受けるのは避けられなかった。建築資材同様、都市の人口が増えるとそれだけ薪が必要となった。
それらの度重なる木材の伐採が木津川流域の天井川化の原因の一つになったと考えられる。
1684(貞亨元)年に描かれた「平尾村絵図」には禿山と化した上流山地と、すでに天井川となった不動川が描かれている。前述のとおり、前年の1683(天和3)年には淀川流域に大水害が発生しており、木津川上流の荒廃もその遠因にあったと考えられる。
また、木津川の河床上昇に伴って洪水が支川に逆流するのを防ぐために天井川化が進んだという背景もある。
京田辺の棚倉孫(たなくらひこ)神社の参道は天津神川が天井川と化したために起伏に富んでおり、一旦天井川を越える必要が生じている。
このように、明治時代以降、技術向上により堤防が完全に締め切られたことで急速に河床が上昇し、各河川で天井川化が加速したと考えられるのである。
草津川と木津川流域の天井川は位置的に離れていて町並みの歴史等も異なるが、その水源を辿ると木材の伐採・運搬により昔から荒廃していた田上山であり、また、草津川が注ぐ琵琶湖も木津川も淀川水系で、木津川・瀬田川(宇治川)・桂川が合流して淀川となり大阪湾に流入するという、上流の山地にも流れ出る下流域にも共通性がある。
明治以降にこれらの河川で本格的な河川改修・砂防工事が行なわれるようになったのは、滋賀や京都から遠く離れた淀川の最下流域・大阪のある事情がきっかけとなっている。
<参考文献>
1/20000『京都及大阪』,平成24年発行,国土地理院
1/20000『草津』,明治28年発行,国土地理院
1/50000『奈良』,平成21年発行,国土地理院
「草津宿 ー東海道と中山道の結節点ー」,八杉 淳,『近江学』第9号,成安造形大学附属近江研究所,2017年1月
「草津川 ー浮世絵にも描かれた天井川ー」,八杉 淳,『近江学』第12号,成安造形大学附属近江研究所,2020年1月
「草津川の天井川化に関する研究 ー江戸時代の絵図によるー」,村上 康蔵,『滋賀県立短期大学学術雑誌』第49号,滋賀県立短期大学,1996年3月
「草津川の生きている遺産 -オランダ堰堤-」,石黒 達也,『砂防学会誌』51巻1号,1998年
「田上山の歴史と砂防遺産」,井口 正一,『砂防学会誌』51巻2号,1998年
「田上山における山腹工の施工による植生の復元と土砂流出抑制」,安田 勇次,『砂防学会誌』63巻4号,2010年
「奈良時代の奈良盆地とその周辺諸国の森林状態の変化(Ⅶ)」,丸山 岩三,『水利科学』38巻3 号,1994年
「奈良時代の奈良盆地とその周辺諸国の森林状態の変化(Ⅷ)」,丸山 岩三,『水利科学』38巻4号,1994年
「禿げ山から地域に親しまれる森林に復旧した田上山の治山事業」,河崎 則秋,『水利科学』60巻1号,2016年
「盆地の河川景観で眼を引く天井川」,春山 成子,水上 崇,『季刊 河川レビュー』,4巻108号,1999年
『環境ノイズを読み、風景をつくる。』,宮本 佳明著,彰国社,2007年
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